ねこの森へ帰る

なくした夢にもどっています

カニクイザル(小説)

兄がカニクイザルを買ってきた。私の大切なナナコ(推定10歳、毛ガニ)を亡きものとするためだ。


ナナコとの出会いは二週間前にさかのぼる。兄が自分の快気祝いにアメ横で奮発したものであったが、おがくずまみれで弱々しく動くナナコを見ていると、とても食べようという気にはなれなかった。そもそも、なぜ私が、兄の尿道クラミジアが治ったことを祝ってカニを食わねばならないのか。


ナナコは、私のクラゲ用の水槽で飼うことにした。兄は激怒した。
「その毛ガニを食わないと、クラミジアが治った気がしないのだ。その毛ガニは、俺にとってのミソギなのだ」
知ったことか。私だってこの数ヶ月、今年で36になる兄の、初めてできた彼女の自慢を聞かされ続け、辟易しているのだ。松嶋菜々子似とかいうその清楚な美人女子大生とのデートの様子を、兄は私の部屋にずかずかと入り込んでは、微に入り細に入り語った。私は黙ってクラゲに餌をやりながらそれを聞いた。
そして、先月、美人女子大生の話をふっつりしなくなったな、と思ったら、こっそり通院するようになったのである。保険証を私が管理している関係もあって兄を詰問すると、兄は、短い恋の破局と、彼女が兄の尿道に残してくれた思い出の品について自白した。
「ミソギかなんか知らないけれど、カニだって、あんたの性病の生け贄にされるなんて死に方は望んでないと思う」
「しかしこのカニは俺の金で買ったものだ」
「あんたの金とか言うのなら、ここの家賃を少しは肩代わりしたらどうなのだこの童貞崩れ」
「女よりクラゲが好きな変態に言われたくはない」
そしていつものように盛大な喧嘩が始まった。


結局、私は兄に7500円也を支払い、ナナコは無事に私の物となった。これで我が家に一時の平和が訪れる……と私は淡い期待を抱いたが、やはりそれは幻想であった。
兄がカニクイザルを買ってきたのだ。


「消費税分については妥協したものの、そのカニはもはやお前の物だ。しかし、そのカニが生きている限り、俺は俺の性病との闘い、ひいては次の恋愛へと進む通過儀礼を済ませたことにはならないのだ。だから俺はいつかそのカニを殺す。俺が殺すとお前は激怒するだろう。しかし俺のペットが殺したのならそれは事故だ。それが俺とお前の妥協点だ、そうだろう?」
リビングに仁王立ちする兄は、肩にサルを載せたままそう宣戦布告した。


これは長い闘いになる。私はそう直感した。私は自室に帰り、対策を練ることにした。
ラップトップの画面に目をやる。そこには、私の馴染みの楽天市場のオンラインペットショップのサイトが開かれている。私は検索欄にゆっくりと「サルクイワシ」と入力した。そして、クリック。
これは長い闘いになる。兄の部屋にはもう既に「ワシクイワニ」が準備されているかもしれない。となれば、「ワニクイザメ」についても調べておく必要があるだろう。「アニクイガメ」って、いないだろうか。水槽の中でナナコはゆったりとハサミを動かしている。ナナコよ、きっとお前を守ってやるよ。これは長い闘いになる。