PPAPがなんで面白がられているのか、言語の視点から説明するよ。
こんなつぶやきを見た。
宮台真司先生がピコ太郎を見て、「これまで自分はあらゆるサブカル現象は瞬時に理解できたし、社会学的に説明することできたが、これだけは理解できない。何がおもしろいのか分からない」と敗北感に打ちひしがれていた。
— 竹熊健太郎《一直線》 (@kentaro666) 2016年10月31日
このご発言がほんとか嘘か、誇張なのかそのままなのか、真偽は不明だけれど、そこは宮台先生に甘えさせていただいて、「社会学の視点でわからない」というわかりやすいボールをみんなに投げてくださったのだととらえよう。そして、その知的なキャッチボールの球をおそれおおくも受け止めさせていただいて、「言語学の視点から」、「PPAP」がどういうふうにおもしろいのかを説明してみるよ。
あ、言語学研究室に所属してたけど、ほとんど授業出てないからそんなに言語学プロパーではないよ。
・音韻論音声学的視点
まず、PPAPは、音韻的には文句なく、心地よい韻を持っている。
「P」という口唇破裂音の連続は、ヨーロッパ諸語であると特に顕著に、子どももおとなも大好きな響きだ。「ピーターパン」や「パイドパイパー」などのキャラは、Pの連続を意図的につくることで、響きをよくしている。
Peter Piper picked a peck of pickled peppers.
という有名なマザーグースの早口言葉があるけれど、この早口言葉は「言いにくい」のではなく「口にして心地よい」という意味の早口言葉の代表格。
呪文などにも、たとえば「アブラカタブラ」など、口唇破裂音「B」がいいリズムで繰り返されるものが多い。
これ以上例を並べなくても、「pen pinapple apple pen」が迷うことなく「復唱して楽しい音だ」と世界で幅広く受け入れられることについては、体感的に反論は少ないのではないかと思う。「つい口に出したくなるもの」が流行るのは、特殊な事例ではなく、むしろ普遍的な現象だろう。
・言語教育的視点
実は世界の大多数をしめる非英語圏の人間にとって「英語の勉強の基礎」は誰でも通過しているものだ。今も、たぶん世界中の教室で、英語の苦手な子どもたち(や、あとからの支援で教育を受ける大人たち)が「This is a pen. I have a pen.」「This is an apple. I have an apple.」みたいなものを暗唱している。
その後、英語が得意になった人も苦手のままの人もいるけれど、みんな、「あのフレーズ、その後の人生でほとんどつかわなかったな、意味あったんかな」と思ってたりする。いや、もちろん文法を学ぶだめに仕方ない過程というのはわかっているけれど。
そして、ピコ太郎さんは見た感じ典型的に「英語が苦手なアジアの変なおじさん」だけれど、それでも昔習ったであろう(あるいは習いたての)自分の知っている数少ない英語のフレーズで、強い気持ちで世界に対峙している。きらきらの安っぽい服で「英語ができるシンガー」という自分に酔いつつ、Youtubeでスター気取りだ(というよくできたキャラだ)。
「英語が苦手そう」なのをものともしない前向きなキャラクターは、不快感が薄い。単に下手な英語で歌うだけの人だったら、おそらく差別的に見えたり、非英語圏の世界の人を馬鹿にした表現ととらえられる可能性も高かったけれど、力強いポジティブさと当事者性、そしてアジアによくいそうなおっさん、というリアリティでうまくクリアしている。もちろん言い過ぎだけれど、英語が苦手な人にとってはヒロイックでさえある。(これは、いくつかの工夫と、それを超える数の偶然が重なった結果だとは思う)
また「This is a apple. I have a apple.」や「This is pineapple. I have pineapple.」という、随所にある冠詞の文法的逸脱も「初学者あるある」「英語しゃべれない国からきた人の英語あるある」だったりするので、ピコ太郎さんのキャラクターが世界中に伝わる表現になっている。
・文法的視点
不思議の国のアリスなどがよく知られていてわかりやすいけれど、文学や論理学、数学などの教育的読み物にはよく「われわれの日常的な論理から逸脱しているナンセンス世界の住人」というキャラが出てくる。そういう人物は、われわれの常識にかたまった日常を見直して「なぜこんな常識があるのか」と考え直させることで知的刺激を与える、大きな意味がある。
実は、ピコ太郎さんもそういう世界の住人である。
自然言語の文法というのは「見たまま」を表現した順番にはならない。僕たちはこんなことを日頃、当たり前すぎて考えもしない。
たとえばここにウナギイヌがいたとする。ウナギイヌは頭を東に向けている。これが、歩いてくるっと回って、西向きになったからといって「あ、イヌウナギだ!」とはならない。よく考えると、不思議なことじゃない?
この手の人間の音声言語の持つ不思議さを、言葉遊びやなぞなぞにつかう例は、世界中にある。
ペンとアップルを足すと(「Ahn!」)「アップルペン」ここまではいい。
ペンとパイナップルを足すと(「Ahn!」)「パイナップルペン」これもよしとしよう。
ただ、これを両手で持ってくっつけた(「Ahn!」)ところで、左から順に読んで「ペン・パイナップル・アップル・ペン」にはならない。文法的習慣でいうならこの物体は「アップル・パイナップル・ペン」であるはずだ。少なくとも僕の通常の言語感覚では。なぜだかはわからないけれど、それが人間のつかう言葉のルールなのだ。(こういう不思議さに敏感に気づき、謎解きにいどむのが、言語学という学問の魅力である)
ピコ太郎さんは、そのルールを飛び越えた。「ただの英語が苦手な人」というものではない、ふしぎの国のアリス的ナンセンス世界の住人であることが、最後に明らかになる動画なのだ。
その、実は知的な刺激のある洒脱なナンセンスさが、世界に伝わっていると思う。「Ahn!」というセクシーな呪文とともに。
・結び
「これだからおもしろい」という説明は、本来はただの「野暮」だ。
なぜ流行ったのかといえば、もちろん「努力と才能と経験に裏打ちされた運」という、例の、作り手すべてがそれに飢えているやつだ。僕だって作り手側の人間である以上、分析なんてひけらかしたところでこれまでの無能をたださらすだけだ。
でも、一方でPPAPに関しては、日本の文化の外で流行しているという現実があって、「小島よしおやら永野やら、キャラ芸人やギャグは日本にはたくさんあるのに、なぜPPAPだけこんなに世界で受けてるの?」という違いに気づかない人、違いを見ようともしない人もいるだろう。地球のスケールで届く普遍性について、という少々の大風呂敷を広げてよければ、「これだからおもしろい」という醜い論にも多少の意義はあるんじゃないだろうか。なにせこれは(真偽は不明だが)、あの宮台先生の投げたボールなのだしね。