ねこの森へ帰る

なくした夢にもどっています

新美南吉「がちょうの たんじょうび」

あまりここにふさわしいとはいえない堅い話です。


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id:rhbさんがブックマークしていた青空文庫新美南吉「がちょうの たんじょうび」を読んだ。非常に面白く読んだのでrhbさんには感謝したい。ありがとうございます。


http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/4726_13211.html

がちょうの たんじょうび
新美南吉


 ある おひゃくしょうやの うらにわに あひるや、がちょうや、もるもっとや、うさぎや、いたちなどが すんで おりました。
 さて、ある ひの こと がちょうの たんじょうびと いうので、みんなは がちょうの ところへ ごちそうに まねかれて いきました。
 これで、いたちさえ よんで くれば、みんな おきゃくが そろう わけですが、さて、いたちは どう しましょう。
 みんなは いたちは けっして わるものでは ない ことを しって おりました。けれど、いたちには たった ひとつ、よく ない くせが ありました。それは おおぜいの まえでは、いう ことが できないような くせで ありました。なにかと もうしますと、ほかでも ありません、おおきな はげしい おならを する ことで あります。
 しかし、いたちだけを よばないと いたちは きっと おこるに ちがい ありません。
 そこで、うさぎが いたちの ところへ つかいに やって いきました。
「きょうは がちょうさんの たんじょうびですから おでかけ ください」
「あ、そうですか」
「ところで、いたちさん、ひとつ おねがいが あるのですが」
「なんですか」
「あの、すみませんが、きょうだけは おならを しないで ください」
 いたちは はずかしくて、かおを まっかに しました。そして、
「ええ、けっして しません」
と こたえました。
 そこで いたちは やって いきました。
 いろいろな ごちそうが でました。おからや、にんじんの しっぽや、うりの かわや、おぞうすいや。
 みんなは たらふく たべました。いたちも ごちそうに なりました。
 みんなは いい ぐあいだと おもって いました。いたちが おならを しなかったからで あります。
 しかし、とうとう、たいへんな ことが おこりました。いたちが とつぜん ひっくりかえって、きぜつして しまったのです。
 さあ、たいへん。さっそく、もるもっとの おいしゃが、いたちの ぽんぽこに ふくれた おなかを しんさつしました。
「みなさん」と もるもっとは、しんぱいそうに して いる みんなの かおを みまわして いいました。「これは、いたちさんが、おならを したいのを あまり がまんして いたので こんな ことに なったのです。これを なおすには、いたちさんに おもいきり おならを させるより しかたは ありません」
 やれやれ。みんなの ものは ためいきを して かおを みあわせました。そして やっぱり いたちは よぶんじゃ なかったと おもいました。




底本:「ごんぎつね 新美南吉童話作品集1」てのり文庫、大日本図書
   1988(昭和63)年7月8日第1刷発行
底本の親本:「校定 新美南吉全集」大日本図書
入力:めいこ
校正:鈴木厚司、もりみつじゅんじ
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。

ネット上のいろいろな評価を見てみたけれど、「心温まるお話」などという評価が多い。
しかし、私は違うと思う。
これは、障害者差別についての物語ではないだろうか。


いたちはどうしても「おおきな はげしい おなら」を出してしまう。それは先天性の問題であり、いたちにはどうすることもできない能力的欠陥、という意味で「障害」と言い換えてもいいだろう。


そこで、「みんな」が「おならをしないなら」という条件で、いたちを仲間に入れる。つまり、「みんなに迷惑をかけないなら」「健常者である我々と同じ行動をとるという条件で」社会参加を認めるのである。


いたちも仲間に入りたいから、必死に自分の「障害」を隠す。しかし、「おなら」を我慢していない「みんな」と違い、いたちはただそこにいるだけで相当な努力をしているわけだから、楽しめるはずがない。そして、ついには我慢が限界に達して倒れてしまう。


そして、「みんなの もの」はこう結論づけるのである。

やれやれ。みんなの ものは ためいきを して かおを みあわせました。そして やっぱり いたちは よぶんじゃ なかったと おもいました。

「みんなの もの」は自分たちのおかした激しく差別的な態度にまったく無自覚であるばかりか、いたちは排除すべきだった、とむしろ差別を肯定するのである。


この「みんなの もの」の行動と思考は、社会が障害者を受け入れる際に非常によく見られる。多くの人は、「受け容れる」こととはすなわち「自分たちのルールを適用させること」だと信じている。その間違いのもっとも致命的な点は、「みんなの もの」がそれを障害当事者を幸せにする「善行」であると勘違いしている点である*1。自分は善行を施した。しかし、あいつはそれを踏みにじり、努力を怠った。だから、そのような障害者は、排除すべき、もしくは隔離すべきと考えるようになるのである。


この物語は、社会のそういう排他の仕組みを冷徹に観察し、寓話の形に仕立て上げたものであるように思う。


ついでにいうと、「受け容れる」というのはそういうことではない。かといって、パーティ会場が悪臭で充満するのを我慢しろ、ということでもない。知った口を叩く人ほど単純な二択に話を還元しがちだが、解決に向けるアイディアはいくらでもある。
それはたとえば、いたちがすぐに外に出て放屁できるよう、入り口に近い席に配置することであるかもしれない。
あるいは、匂いが充満しない屋外で誕生パーティを開くことであるかもしれない。
あるいはいたちの屁を即座に吸引できるようなテクノロジを開発することかもしれない。まだまだいろいろな解決案はあるはずだ。
ポイントは、どの案をとるべきなのかを「みんなの もの」と「いたち」とでしっかりコミュニケーションをとって決定し、実行し、修正することである。いたちだって大がかりな装置を用意してまでがちょうの誕生日を祝いたいと思ってないかもしれないし、なんとしても祝いたいと思っているかもしれない。意思の疎通が不十分であるところには「善行」は成立しない。


「受け容れる」というのは要するに、「自分たちのルールを柔軟に変更する」ということであり、「受け容れる力」というのは「ルールを柔軟に変更しても社会を維持できる余裕」のことだ。余裕のない人を見ているのが悲しいのと同じように、余裕のない社会は、見ていて悲しい。


どうか、がちょうには、来年の誕生日こそ、「いたち」も「みんなの もの」も参加するパーティを開催してほしいと思う。そして、がちょうに「私のパーティは成功だった」と世間に広く自慢してほしいと思う。私も、そんながちょうになりたいと強く思う。



(追記)
ブックマークしてくださったid:watapocoさんへ。いちおう「がちょうのたんじょうび」を検索して出てきた感想をざっとリンクしておきます。順不同です。

http://www.alps.or.jp/match/shibai/gacho/index.html
http://www.ehonnavi.net/ehon00_opinion.asp?No=10699
http://ehonworld.exblog.jp/9498185/
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%81%A1%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%9F%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%B3-%E6%96%B0%E7%BE%8E-%E5%8D%97%E5%90%89/dp/4434056093
http://www.kotonoha.co.jp/title/douwa/gatyou.html


私なんかよりずっと的確に要領よくまとめているところもありました。学校がしっかりしててほっとします。でも「従属して苦しむいたちの弱さ」という視点は私にはなかったです。
http://www.iwamigin.jp/school/kute/19koutyou15.html

*1:それがなぜ勘違いか、というのは、いたちと同じようにパーティの間中ずっとおならを我慢してみればいい。おならを我慢しながら行うどんな行為でさえ幸せではない。しかもいたちは自発的におならを我慢しているのではなく、社会からの要請によりおならの我慢を強制させられている。