ねこの森へ帰る

なくした夢にもどっています

昔の原稿から

 僕にも昔、父がいた。


 父はラグビーが好きだった。高校時代にラグビーをやっていたというけれど、そして、時々強かったようなことを僕に吹聴していたけれど、本当のことはわからない。僕に着実に伝わってしまった遺伝的形質から分析するに、補欠と球拾いの境目あたりで活躍していたんじゃないか、という気もする。


 でも、そういう「客観的事実」は子どもにとって、大人が気にするほど重い要素ではない。父がラグビーのルールや選手や戦略にものすごく詳しい、それだけで、僕は十分に尊敬していた。


 ある秋の終りに、父は僕を、千駄ケ谷にあるラグビー場に連れていってくれた。父はダフ屋から格安のチケットを買い、大して観客の入っていないスタンドの、それも風の一番強い後部席に陣取った。父の言葉によればラグビーは戦略のスポーツで、グランド全体が視野に入るこの席こそが絶好のポイントであるそうだ。


 寒風に震えながら父と一緒に見た独走トライは、今でも脳裏に焼き付いている。スコアボードも。父の細かなメモ書きがたっぷり書きこまれたくしゃくしゃのメンバー表も。そしていつも家族の前では見せたことのない、興奮した父の表情も。帰りの電車の中で子どもに分かるはずのない戦略論を熱く語っていたことも。


 家に帰ると、母は激怒した。体脂肪のほとんどない僕は、強烈な冬の風を2時間あまり受けたせいで、ほとんど凍りついたように冷え切った体になっていたからだ。そして、父を激しく叱責した。自分の個人的な趣味につき合わせたばかりか、子どもの体のことすら考えられないというのは、親として無責任なのではないかと。


 それは違うのだ、とずっと思いつつ母の叱責を聞いていたのを覚えている。僕は強風のラグビー場で十分に楽しんでいたし、けして退屈でも、親に無理矢理付き合わされているわけでもなかった。寒さと自分の皮下脂肪の関係を忘れるほど興奮していたのだ。たまにしか会うことのできない父とともに。僕はそういう貴重な時間を、確かに満喫していた。


 でも、たぶん、僕はずっと黙っていた。なぜ黙っていたのだろう。冷え切って歯の根が合わず、口を動かす力が残っていなかったような気もする。いや、違うな、それは自分の弱さがあとから捏造した弁解だ。僕はおそらく、有利な側に、楽な側に立つことを選んだのだ。父を見殺しにして。
 父もまた黙っていた。父の視線を感じ続けていた嫌な背中の感覚の記憶ばかりが、今でもじっとりと残っている。


 その日以来、というわけではないんだろうけど、父と僕との関係は妙にぎすぎすしたものになった。父は僕に気を遣うようになり、できるだけ僕と距離を置いた。僕も、あの時母親に反論してやれなかった後悔と謝罪の念をうまく父に表現することができず、距離を置くようになっていった。


 そうこうしている間に、父は、僕の人生からはいなくなってしまった。まあそれは別の話だ。


 父は多分今でも、僕に尊敬されていない、と思っているだろう。父親失格だ、と思っているだろう。ある部分ではその通りだ。 いなくなってしまったのだから。


 でも、どんな父であろうと、僕にとって唯一の父であり、唯一の少年時代であったわけで、そしてあのラグビー場の思い出は、絶対に誰にも渡すことのない、僕だけの大切な大切な宝物で、そういう意味においては彼は父としてけして失格なんかではなく、むしろ失格なのは僕だったのかもしれなくて……。


 ごめん、今、ちっとだけ、僕は、泣いている。


 (2000.7.28を改稿)


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この原稿を書いた時にはまだ生まれていなかった人が、夏休みに私の家に遊びに来て、その人はなんだかあのときの自分のように私になついていたので、なんとなくこの原稿を思い出して、再掲します。もちろん私も、私の父がそうしていたのと同じことを繰り返しています。


父は子に
子は父に似て
パルプンテ (あらら)